2015年11月23日月曜日

出演者の山内由起子さんから


私は即興ダンスを観る事が好きな鑑賞側で、演じさせて貰うのは初めてです。
 その場の雰囲気と共鳴する為、毎回違う形で表現され、
どこまでも自由に動く体はとても美しくて、プラスのエネルギーを感じます。
あと一歩で自分の深い意識に届きそうになる程、陶酔してしまいます。
人が何かと共鳴して作り出す一生懸命のエネルギーを観ていると、
私達は自然の一部であり、無限の可能性を秘めた存在なんだなぁと感じます。 

おしもはんは、大掛かりなセットも無く、衣装は日常着、道具も家にある物から作られ、
持ち寄られました。 
出演者達も、知り合いや友人の繋がりです。 
そして演出家さんを始め、ミュージシャン、照明家さん、美術家さん、役者さんの心が
いっぱい詰まっています。 
普段は口にしにくいけれど、みんなが関わるしものはなし‥ 
人それぞれの日常になぞらえ、感じてもらいながら、プラスのエネルギーを
この場の皆様と共有出来たら幸せだなぁと思います。 

おしもはんの練習風景は、流れに任せながら緩やかに進みます。
ハプニングも流れの一つなのでハプニングなんて存在しない。。
いつも笑いに溢れ、肯定的に進み、とても楽しくて愉快です。 
これからどんな環境にいても、肯定的に捉え、
愉快な気持を大切に暮らしていきたいなと思います。

おしもはんに参加することが出来て心から感謝です、
そして観に来て頂けた事も心から感謝しています。 

『皆様に幸あれ』 


山内由起子

2015年11月20日金曜日

出演者の西山由紀さんから

おしもはんのテーマは、私たちがずいぶん長いこと
想いをこめてたずわさってきたテーマだ。

赤ちゃんの排泄から妊娠・出産・月経やパートナーとの関係、
それに育児をしながら10年以上、介護してきた体験。

それがこんな形で舞台になる。
感動のあまり、リハーサルのたびに涙腺がゆるんでしまった。

慣れなかった育児や介護がオーバーラップするからだろう。
楽しくて泣けてきて、涙と笑いなしには見ちゃいられない。

だけど、こうやって、たいへんだった体験が作品として昇華されると、

これはもはや個人の体験ではなく人類としての体の記憶を
追体験しているように感じる。

「おしもはん」は、普遍的で、そこではすべてが受け入れられているのだ。

そもそも、「おしもはん」は舞台なのに脚本がない。
「どう思う?どんな感じ?」「動いてみて。」
演出家・伴戸さんのナビゲートで、ダンサーの人もダンスとは縁もゆかりもない人も
とりあえず、感じるままに動いてみる。

動きや感情のすべてが受け入れられる感覚。
「おしもはん」の魅力は、たぶん、そこに集約されるのだと思う。

ばんちゃん(伴戸さん)に、ダメ,と否定されたことがない。
上手も下手もない(たぶん)。

おそらく誰もが体内にもっているけれど眠っていたような踊りをどんどん引き出してくれる。
それは、とても心地良い作業だ。

「おしもはん」は、アメーバのように、出演する人によって、その都度進化していくのだと思う。
人が成長していくように。
これは、大きな海のような、母なる大地のような作品だ。

さて。わたしは、果たしてここで何をするのか?

0歳の赤ちゃんの気持ちを代弁して、赤ちゃんだって気持ちよく排泄したい!
おしっこやうんちが気持ちよく出ると天にも昇るほど嬉しいんだよ!
と伝えたい・・・!


西山由紀
おむつなし育児研究所京都サロン
http://omutsunashi-kyoto.com/
 

出演者の池端美紀さんから


ダンサーの池端美紀です。

私は、妊婦さんや産後のお母さん向けのピラティスやヨガのレッスンもしているせいもあり、普段から おしも について考える機会が多くありますが、今回ほど、おしものことを言葉にしたり身体で表したりする機会はなかったように思います。

それは知識としてではなく、私自身の身体の感覚を掘り起こす作業でもあるし、共演者のこれまでの身体の経験を私の身体で受け止める作業でもありました。

おしも のことは誰もが当事者で、人の数だけ おしも のストーリーがあって、そのどれもが(快、不快に関わらず)特別なものです。
特別なものだけど歴史にも残らないようなプライベートな部分が、人を形作っていることがとても愉快だな、と思います。



池端美紀

妊娠中、産後の女性のための出張型スタジオ
ombligo(オンブリーゴ) ホームページ

2015年11月18日水曜日

出演者の池添敬子さんから



辻野恵子さんから、
「今度、産まれてから死ぬまでのしもをテーマにした
『おしもはん』っていう舞台すんねん。
お母さんたちも参加できるような、、、」

おしもはん?私の中で、なんかおもしろそう!参加してみたいな〜という気持ちが沸き起こりました。

インターネットやTV.スマホで様々な情報を入手できる現代。
自分の子どもたちも成長してきて「性?」「エロ?」に対して興味がでてきました。

私が幼い頃は親達と性の話しなんてタブー・・・な感じだった。
だけど私は我が子とはそんなタブーな話を少ししてみたい。。
子どもたちはちょっと嫌がるかもしれないが、、、
そんな思いがきっかけで舞台に参加させてもらうことになりました

自分の身体をつかって言葉ではなく空気感、リズム感、他の人達との間や距離感…
はじめは頭だけで考えてしまい逆に縮こまっていた気がします。

でも、稽古を通してその空気感を味わうことが心地よくなってきて緩んでいっている自分を
感じたりできるようになってきました。
本番もカラダとココロが喜ぶような動き、思いっきり楽しみたいなあー。

そして、愛くるしいおしもはん。
ニヤニヤが止まらなさそうだ〜。



池添敬子

2015年11月17日火曜日

美術の小池芽英子さんから


おしもはんメモ(おしもはん物体制作のためのメモや皆の話などを聞き書きしたメモから)
しつらえた所でのおしもはんでなくて
お客さんもみることで参加していくような
だんだん舞台ができてくる
子どももいれるような空間
演目を見るためにその場を緊張して居なくてもいい
子どもたちのざわざわも舞台のひとつの風景になるような装置
ある状況をあるままに設えていく準備していける
老人も昔もむかしちいさい
ちいさいひとも老人になっていく
じゅんかいしていたらさみしくないかも
縄が丸くなっていく
数珠回し 数えながらたぐり回していく
レイ ハワイでは人を迎えるときに首にかける環 つながっていくことのあいさつ 
カミサマ的な作業 日常非日常を相まって作っていく
踊りと別のリズム
舞台上でひたすら作る時間
暮らしの中にいき着く瞬間
暮らしの中で芸術と交わる時間
3人の美術  違うものが交わる
ずっとそこに住んでいるような
日常の強調 
おしもはん 
おみよさん
塊が反転して膜の中にみんながいて送り出したはずがずっといてる
膜をたぐりよせながら送り出していく
もしかしたら永遠にたぐり続けるのかもしれない
皆で踊る踊り
リアルなことをかわいく見せる
えぐくなくほほえましい 祭りの力
神事
絡み合った蛇
みんなで依ろか
はく ゆう よる
作業歌  見る音
おしもはんのうた
おしもはんこの世にやっってくる
おしもはんあそんでそして帰っていく
迎えもてなし送り出す
永久運動(永久運動メモ参照)
「カミサマ」(永久運動メモ参照)
ナマコ (永久運動メモ参照)
137億年(永久運動メモ参照)
おしもはんの成長するベクトル
カミサマを呼ぶ 
御幣 神楽で飾るカミサマを可視化したもの
見えないカミサマを可視化 
風に揺れたり 
ひとつでなくていっぱいいる
みえないものは身近にあって、それと一緒にいきている
おおきな世界があって、その人たちと一緒にいきている
通過するものでなく循環するわたしたち
循環しているならば寂しくない
なにもなくふちどられた身体をもちあげる
身体に残る介助の所作
介助する側される側の所作
ひとりの人間が身体をかわるがわるうらおもてに
立ち位置を変えながらくるくるする
身体にしみ込んでいるもうそこにはいないひとへの記憶
ひとつひとつの所作はもういないあの人と今のけいこの身体を再生構築していく
みる人がいて なにもないからだをみる
手から手へ 不在の重量
そのためのもの とは
送り出しながら開いていく
おしもはんが無くなっていく
おしもはんが希釈していく
からだにしみ込んでいくよう おしもはんおしもはんおしもはーん



小池芽英子
個人ブログ http://koikemeeko.exblog.jp 


2015年11月16日月曜日

出演者の大歳芽里さんから


”おしもはんとは”




「おしもはんに参加する」は「祭事を行う為の寄合に参加する」に似ている。
この寄合は参加出来る時に参加し、2日間の祭事の内1日だけの参加でもいい。
また、祭事当日参加出来ない人もいる。
子ども達も参加したい時に参加するのでいい。
それがこの寄合に参加する人達にとって自然なことであり、
各自役割を分担しつつもただただ空気感で動いていることもある。
 
寄合では、人がうまれてからしぬまでの’しも’にまつわることが話され、
儀式のように工程化されていく。
それでも毎回寄合仲間が揃うわけではないので、きっちりとしたしきたりにはならない。
寄合参加者の中には恥ずかしそうに儀式に参加している者もいれば、
堂々と仕切っている者もいる。
たまに思わぬ動きをしている者もいたりする。
それぞれ祭事に対して思うことがあるのだろう。
祭事を行うプロフェッショナルは存在せず、祭事に無縁だった者も
なんだか分からない内に寄合仲間になっていたりする。
むしろ分からないから参加したのかもしれない。
 
「おしもはん」というのは、生であり、死であり、性であり、しもであり、人のようで
人ではない、空間で自在に変化していく大きな得体の知れないものかもしれない。
寄合参加者はそれぞれの生活の延長線上に「おしもはん」を
捉えているにもかかわらず、全貌は見えていないのだ。
祭事が行われる時はじめて、自分達が何かをささげている「おしもはん」に
出会うのだろう。

と書くと、とても不思議な寄合であるが生活のパワーに溢れている。
祭事があろうとなかろうと、寄合参加者はそれぞれの役割を続けていて、
それがたまたま「おしもはん」で繋がっただけなのだ。
祭事当日に新規の寄合仲間も知らない内に増えるのではないかと少し思っている。


大歳芽里 
個人ブログ http://kiwameri.blogspot.jp/

出演者の和珠(かずみ)さんから



おしもはんに参加するまで、私は曼荼羅を描いたり、メイクの仕事など、
何か「もの」を使って表現していました。
おしもはんの中では、ただ自分の身体で表現しています。
しかも、その表現したいものが、身体を通じて訴えてくるような感覚があります。
おしもはんの題材は、そう、私の中に元々あったものであり、
また、未来にも繋がっていくものだったのです。
私は母としてこの作品に出会えたことで、また、新しい視点をもらえました。 


和珠
個人ブログ  http://ameblo.jp/personalmandala/entry-12095566389.html


2015年11月15日日曜日

出演者の渡邉安衣子さんから


助産師の渡邉安衣子です。
私は妊産婦さんや赤ちゃんと関わるお仕事も大好きですが、
子ども達に行う性教育活動もとっても大好きです。

大切なコトなのに、目をそらす大人が多い中、
恥ずかしげもなく、堂々と語るおばちゃんがおんで~と、
子ども達の目がキラキラしてくるのが分かります。

自分と他者がいる世界に、
生まれてくること、
交わること、
また生み出してゆくこと・・・
こんな素晴らしい営みを私は語ること、「言葉」だけで表現してきました。

でも、この「おしもはん」の稽古を通して、
カラダを使い、心を使い、言葉だけに頼らない表現もあることを学びました。

言葉だけに頼らない、というよりも、
言葉だけでは埋められないコトも表現できる可能性を見出しました

ダンスなどしたこともなく、
それは頭でっかちな私にはとても困難なことでしたが、
とても新鮮で、何より楽しい稽古でした。

ダンサーたちと言葉もココロもカラダも交えて、作品を生み出しました。
これからも「おしもはん」はどんどん進化してゆくことでしょう。

こうやって人と交わることで生み出す作業を繰り返しながら
生きていけることに深く感謝します。




渡邉 安衣子
watanabe aiko


助産師 あいこさんち
WEB http://midwife-aiko.webnode.jp/

出演者の野呂諭美さんから


野呂諭美です。


おむつなし育児を通じてばんどさんのダンスワークと出会い、その楽しさに魅了され、
今回の公演にも2歳5カ月になる息子とともに参加させていただいています。

息子を出産した直後から、おっぱい育児につまずき、悩みがちな日々を過ごしていました。
そんな中、「おむつなし育児」に出会い、一転、育児が楽しめるようになりました。

「おむつなし育児」をしていると、なぜだか、おしっこやうんちが「きたなく嫌なもの」という
感覚から、「かわいくありがたいもの」という感覚に変わります。大げさにいうと価値観の革命!

嫌なものが少なくなって、人生がちょっと楽になるような気がしました。

暗くされがちな「しも」に光をあてると、今より楽になる人がたくさんいるのではないかなー
と感じています

「しも」をテーマにした「おしもはん」のお稽古は毎回とても楽しいです。動いてみて感じたことを
表現し、それが次の動きにつながっていく…。感じることも表現することも自由な雰囲気は
居心地がよいのです。

息子連れなので、おっぱい、おしっこ、で中断させられることもしばしば。最初はそんな息子に
モー!と思ったりしていましたが、お稽古に入ったり入らなかったりしても、それさえも自由な
雰囲気に助けられ、次第に気にならなくなりました。

子どもと外に出ると、「〜しなければならない」「〜でなければならない」というような社会の
価値観とぶつかってしんどい思いをすることがあります。もしかすると、その価値観は私が
勝手に感じているだけのものかも知れないのですが…。

そんな価値観から解放されて、自由でいられる場所がある。そんな時間がある。という記憶は、
私にとっても、子どもにとっても心強いものになるのではないかと感じています。

公演本番も、そんな時間になればいいなーと思っています。

本番も思いきり楽しみたいです!

2015年11月9日月曜日

空気が(舞台を)つくる -舞台公演『おしもはん』の断片を観て / 榊原充大



舞台公演『おしもはん』、さて、どんな舞台になるのでしょうか?

舞台にはあまりなじみのない、普段は建築についてリサーチなどされている、
榊原充大さんに稽古場を見学してもらい、感想を書いてもらいました。

たっぶり書いてもらいましたので、ゆっくり、じっくり読んでもらえたらと思います。



* ‥ * ‥ * ‥ * ‥ * ‥ * ‥ * ‥ *  ‥ * ‥ * ‥ * ‥ * ‥ * ‥ *  ‥ * ‥ * ‥ * ‥ *


空気が(舞台を)つくる-舞台公演『おしもはん』の断片を観て   
◆榊原充大
 


おんなのちえ しぼって でーた おしもはーん

ほんとのラヴ あすーへ かんぱい

(原曲:イパカライの思い出/替え歌:渡辺智江)





こうやってはじまる歌は、「月の家」による舞台公演『おしもはん』の劇中歌。今この文章を書いている時点では、私はこの歌が舞台全体のどこで歌われるのかをまだ知りません。「人がこの世に迎えられ、もてなされ、送り出される」という、この演目の大きなテーマだけを伝えてもらい、稽古の様子を見学させてもらいました

この文章は、ある舞台を観終わった後に書かれた評論ではありません。むしろある舞台の稽古の断片を断片のまま観て書かれたもの。劇中歌と同じく、その日私が観たシーンの断片が舞台全体のどこに入るのかをまだ知りません。そもそも私は建築を専門にしているので舞台表現の専門家ではありませんし、また普段からさほど舞台を観ているわけでもありませんということで、私が『おしもはん』という舞台を総体的に評価することはそもそも難しいのですが、断片を断片としてることで私が考えたかを書くことはできます。この文章はそういう視点から書かれています

さらに言えば、その視点からは、『おしもはん』という舞台全体としての意味はさておき、純粋に断片だからこそ生まれている強さをたり、つくり手の意識をより率直に見たりすることできるはず。この文章になにか価値があるとしたら、そういう「舞台全体を通しで観る」ことからは得られない種類のものになるでしょう

さて、私が今回取り上げるのは、その日私が観た2つの断片。「エロスダンス」と呼ばれるシーン、そして「つなひき」のシーンです少し建築の話も参照しながら、感想を書いていこうと思います。


「エロスダンス」と呼ばれるシーン 
ストレッチ、発声練習の後私が最初に観た断片は、「エロスダンス」と呼ばれるシーンの稽古でした。演者である池端美紀さんと渡邉安衣子さんの二人がそろって登場します。池端さんはダンサー、渡邉さんは助産師。助産師の渡邉さんがおもむろに性について、いわゆる性教育の授業のように、人に語るような話し方でハキハキと喋りはじめる。なぜ精子は白いのか、と観客(である見立ての他の演者)に問いかけます。性教育とは一面で、「よそゆき」の言葉で語られるセックスのことだったような気がする、とふと思い出します

んな快活さに溢れた渡邉さんは、隣で踊る池端さんが自身の身体に触れるととたんに黙り、身をよじらせます。絡み合う2つの身体はセックスの比喩であるかのよう。比喩ではありますが身体動作と表情が艶かしく、「よそゆき」とは逆の、いわば「素」のセックスがそこにあるようでした。語りとしてのセックスと、比喩としてのセックスはその後数回繰り返され、ひとつながりになりますただ、そう「見える」のは観客としての私の視点でしかなく、きっと渡邉さんにとってはどちらもが自身の日常なのでしょう。ただ、その「よそゆき」と「素」とが暴力的断続することにこそ、私はもっともエロを感じたのです

見せたいものを見せるという意味での「ポルノ」と、使い古されてボロボロになった「エロ」という言葉が混在する世の中で、「エロ」生への衝動エロスから来た言葉そんなことは普段はとりたてて思い返さず、ポルノの洪水はエロを表層のままに止めようとするかのようです。でも、このシーンの断片は、その意味をもう一度問い直させるだけの力を持っていたように感じます。

のみならず、張り詰めた緊張感の中にある発話と身体の動きが、そうした意味自体を乗り越えるメッセージを発しているようでもあったそのメッセージがなんだったのかは今だによくわかっていませんが、その感覚は今も私の中にずっと残っています。それがシーンの「強さ」なのではないでしょうか。


「つなひき」のシーン
その後に私が観た断片は、「つなひき」のシーン。古い布切れを繋げた長い縄のようなものが何本も張り巡らされ、複数の演者がその一端を儀式のように引き合います。最終的にはより合わせた縄であることをするのですが、演者のお子さんが時々入り込んでしまうところに正直ハラハラしながら観ていましたそのとき演出助手の辻野恵子さんが言ったのが、「本番でもそういうことがあってもいいんじゃないか」ということ。その言葉にハッとしました

というのも、最初に私はこんな風に考えていたからです。演劇であれ建築であれ、「作品」は完璧に完成されたひとつの世界でありこの舞台はもちろん「作品」であって、その世界にとって演者の関係者は「不確定要素」で、いわば子どもたちによって「完成が妨げられてしまう」のではないか、と。ところが辻野さん曰く、この舞台の中に子どもが入っていってもいかなくてもいい、と。

「不確定要素が入っても入らなくてもいい作品」は、(そんな作品があるのかは分かりませんが)「不確定要素をあえて取り入れた作品」とも違うもの。「どちらでもいいというその「懐の深さ」は、少なくともが考えていた「作品」というもののかたちを少し変えてくれました


建築から考えてみる
「演劇であれ建築であれ」と書いたので、行きがかり上ここで建築を参考に話を進めてみたいと思います。一般的に「建物を設計する人」というイメージを持たれている建築家は、手がける建物を自分の「作品」としてとらえる作家、と考えられることが多いように感じます。一方で、こうした作家性ではなく、「使い手」をどう建物の設計に取り入れるか、という考え方を強く持つ建築家もいます。これは単に住宅だけに限った話ではなく、公共建築や都市計画においても「使い手」「市民」といった不確定要素をどう取り入れて設計するか、は長く問題にされてきたことです。

当然のことながら、使い手は自分の好きなように使います。それを先回りして、あらかじめ、使われる前の状態の設計に生かすことはとても困難です。残念なことですが、不確定要素をどう取り入れるかの一つの対策としてあるべき「使い手に意見を聞くこと」が「建てることの必然性」のでっちあげに近いものとして使われる場合も少なくありません。「私が決めたのではなく、みんなで決めたことでしょ」と。そうではない「使い手の意見を取り入れた建築」にももちろん優れたものはあるのですが、それはどこか私たちとは遠いところでつくられているのではないか、と感じてしまいます。その「使い手」は誰かであって、私ではない、と。それは建築家という作家による「作品」と、そう変わりません。

もちろんこれは私の価値観ですから、そうではないという考え方もあってしかるべきです。ただ、私は「私もまたそこに含まれている」と思える/思ってもらえるような建築が理想です。そしてその際問題にすべきことは、「完成」とは何か?ということだと私は考えます。これが最も理解されにくいことかもしれませんが、建築にとっての完成は、一般に考えられているような「建物を建てること」では必ずしもありません。使い手の思いに応えるために、建築的な知識をいかなる成果物にどう反映させていくべきか? そんな考え方で様々な人をサポートする役割としての「建築家」だっていてもいいはずでしょう(し、それこそが私の目指す「建築家」の理想形です)。そのとき「完成」の意味も変わってくるように思います。


そこに「私」はいるか?
「完成」を問い直すこととは、一種の「場」をつくることだと言い換えることができるかもしれません。特定の誰かだけではなく、私もまたそこに含まれていると感じられる場。そこにおいて、もしかしたら建築も舞台もまた別の何かも、ともに手を取りあえる可能性があるかもしれない。

そして『おしもはん』の稽古を観たときに思ったことは、この舞台は「完成」とは何かを考えさせてくれる作品なのではないか、ということでした。もちろん観客が入る舞台公演ですから、最も問わることは、つめかけた観客にどんな感想をもたらすのか、ということでしょう。ただ、今回私は断片だけを観るという機会に恵まれたからこそ、これを強く感じることができたように思います。

「私もまたそこに含まれている」という感覚は、実際に多様な人々を受け入れるために必要なことだと思います。不確定要素は現実問題として、時と場合によって「いたり/いなかったり」します。その「いたり/いなかったり」を、可能性のまま成立させること。私が先に書いた「懐の深さ」とは、そういう意味のことです。ふと漏らされた一言からずいぶんと蛇行しつつ大層なことを書いているな、と思われているかもしれません。が、「人がもてなされること」をテーマにするこの『おしもはん』という演目が、それ自体多様な人々をもてなさんとする意志に貫かれているものだ、ということを実感できたのが、この一言だったのです




「空気がつくっていく」
演劇が言葉だけからなるものではなく、言葉と身体との重なりによっているものであることを「エロスダンス」のシーンから実感しそして、演劇というジャンルを超えて、作品としての『おしもはん』の形式としての面白さ(と私が感じたもの)を「つなひき」のシーンから見ることができました後者では私自身の専門分野の話を少し引きながら話を大きくしてみました。

素直にまとめると、以上が2つのシーンを観た私の断片的な感想です。この文章は、『おしもはん』の断片のディテールにまつわるもの。そんなディテールに見えてくる、まだ言葉になっていない発話と運動によって届けられるメッセージ。それは受け取る側の観客としての私たちに読み解きが委ねられたものでしょう。私はこう考えましたが、あなたはどう考えますか、と

印象的だったのが、稽古後のレビューで構成・演出の伴戸千雅子さんが言った「空気が(舞台を)つくっていく」という言葉。事実、この日の稽古の様々な場面で、演者それぞれが議論をしたり、アイデアをやりとりしている風景を多く見ました。誰が強く決めるわけではなく、雰囲気としての「空気」がこの演劇をつくっていく。かといって誰も決めないわけではなく、伴戸さんのコンタクトのもとに『おしもはん』という磁場が生まれてくる。そんな、新しい「完成」のあり方が生まれてきそうなこの磁場こそが、「月の家」によるもっとも重要な「場」であり「作品」となるはず。それを確かめるためにこそ劇場に足を運んでみたいと思います






榊原充大|Mitsuhiro Sakakibara
建築家/リサーチャー、京都精華大学非常勤講師。建築にまつわる取り組みなどについて、調べたり、編集したり、文章を書いたりしています。2008年からRADという組織を運営しています。

WEB(組織):http://radlab.info/
twitter:@sakakibara1984