2015年11月9日月曜日

空気が(舞台を)つくる -舞台公演『おしもはん』の断片を観て / 榊原充大



舞台公演『おしもはん』、さて、どんな舞台になるのでしょうか?

舞台にはあまりなじみのない、普段は建築についてリサーチなどされている、
榊原充大さんに稽古場を見学してもらい、感想を書いてもらいました。

たっぶり書いてもらいましたので、ゆっくり、じっくり読んでもらえたらと思います。



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空気が(舞台を)つくる-舞台公演『おしもはん』の断片を観て   
◆榊原充大
 


おんなのちえ しぼって でーた おしもはーん

ほんとのラヴ あすーへ かんぱい

(原曲:イパカライの思い出/替え歌:渡辺智江)





こうやってはじまる歌は、「月の家」による舞台公演『おしもはん』の劇中歌。今この文章を書いている時点では、私はこの歌が舞台全体のどこで歌われるのかをまだ知りません。「人がこの世に迎えられ、もてなされ、送り出される」という、この演目の大きなテーマだけを伝えてもらい、稽古の様子を見学させてもらいました

この文章は、ある舞台を観終わった後に書かれた評論ではありません。むしろある舞台の稽古の断片を断片のまま観て書かれたもの。劇中歌と同じく、その日私が観たシーンの断片が舞台全体のどこに入るのかをまだ知りません。そもそも私は建築を専門にしているので舞台表現の専門家ではありませんし、また普段からさほど舞台を観ているわけでもありませんということで、私が『おしもはん』という舞台を総体的に評価することはそもそも難しいのですが、断片を断片としてることで私が考えたかを書くことはできます。この文章はそういう視点から書かれています

さらに言えば、その視点からは、『おしもはん』という舞台全体としての意味はさておき、純粋に断片だからこそ生まれている強さをたり、つくり手の意識をより率直に見たりすることできるはず。この文章になにか価値があるとしたら、そういう「舞台全体を通しで観る」ことからは得られない種類のものになるでしょう

さて、私が今回取り上げるのは、その日私が観た2つの断片。「エロスダンス」と呼ばれるシーン、そして「つなひき」のシーンです少し建築の話も参照しながら、感想を書いていこうと思います。


「エロスダンス」と呼ばれるシーン 
ストレッチ、発声練習の後私が最初に観た断片は、「エロスダンス」と呼ばれるシーンの稽古でした。演者である池端美紀さんと渡邉安衣子さんの二人がそろって登場します。池端さんはダンサー、渡邉さんは助産師。助産師の渡邉さんがおもむろに性について、いわゆる性教育の授業のように、人に語るような話し方でハキハキと喋りはじめる。なぜ精子は白いのか、と観客(である見立ての他の演者)に問いかけます。性教育とは一面で、「よそゆき」の言葉で語られるセックスのことだったような気がする、とふと思い出します

んな快活さに溢れた渡邉さんは、隣で踊る池端さんが自身の身体に触れるととたんに黙り、身をよじらせます。絡み合う2つの身体はセックスの比喩であるかのよう。比喩ではありますが身体動作と表情が艶かしく、「よそゆき」とは逆の、いわば「素」のセックスがそこにあるようでした。語りとしてのセックスと、比喩としてのセックスはその後数回繰り返され、ひとつながりになりますただ、そう「見える」のは観客としての私の視点でしかなく、きっと渡邉さんにとってはどちらもが自身の日常なのでしょう。ただ、その「よそゆき」と「素」とが暴力的断続することにこそ、私はもっともエロを感じたのです

見せたいものを見せるという意味での「ポルノ」と、使い古されてボロボロになった「エロ」という言葉が混在する世の中で、「エロ」生への衝動エロスから来た言葉そんなことは普段はとりたてて思い返さず、ポルノの洪水はエロを表層のままに止めようとするかのようです。でも、このシーンの断片は、その意味をもう一度問い直させるだけの力を持っていたように感じます。

のみならず、張り詰めた緊張感の中にある発話と身体の動きが、そうした意味自体を乗り越えるメッセージを発しているようでもあったそのメッセージがなんだったのかは今だによくわかっていませんが、その感覚は今も私の中にずっと残っています。それがシーンの「強さ」なのではないでしょうか。


「つなひき」のシーン
その後に私が観た断片は、「つなひき」のシーン。古い布切れを繋げた長い縄のようなものが何本も張り巡らされ、複数の演者がその一端を儀式のように引き合います。最終的にはより合わせた縄であることをするのですが、演者のお子さんが時々入り込んでしまうところに正直ハラハラしながら観ていましたそのとき演出助手の辻野恵子さんが言ったのが、「本番でもそういうことがあってもいいんじゃないか」ということ。その言葉にハッとしました

というのも、最初に私はこんな風に考えていたからです。演劇であれ建築であれ、「作品」は完璧に完成されたひとつの世界でありこの舞台はもちろん「作品」であって、その世界にとって演者の関係者は「不確定要素」で、いわば子どもたちによって「完成が妨げられてしまう」のではないか、と。ところが辻野さん曰く、この舞台の中に子どもが入っていってもいかなくてもいい、と。

「不確定要素が入っても入らなくてもいい作品」は、(そんな作品があるのかは分かりませんが)「不確定要素をあえて取り入れた作品」とも違うもの。「どちらでもいいというその「懐の深さ」は、少なくともが考えていた「作品」というもののかたちを少し変えてくれました


建築から考えてみる
「演劇であれ建築であれ」と書いたので、行きがかり上ここで建築を参考に話を進めてみたいと思います。一般的に「建物を設計する人」というイメージを持たれている建築家は、手がける建物を自分の「作品」としてとらえる作家、と考えられることが多いように感じます。一方で、こうした作家性ではなく、「使い手」をどう建物の設計に取り入れるか、という考え方を強く持つ建築家もいます。これは単に住宅だけに限った話ではなく、公共建築や都市計画においても「使い手」「市民」といった不確定要素をどう取り入れて設計するか、は長く問題にされてきたことです。

当然のことながら、使い手は自分の好きなように使います。それを先回りして、あらかじめ、使われる前の状態の設計に生かすことはとても困難です。残念なことですが、不確定要素をどう取り入れるかの一つの対策としてあるべき「使い手に意見を聞くこと」が「建てることの必然性」のでっちあげに近いものとして使われる場合も少なくありません。「私が決めたのではなく、みんなで決めたことでしょ」と。そうではない「使い手の意見を取り入れた建築」にももちろん優れたものはあるのですが、それはどこか私たちとは遠いところでつくられているのではないか、と感じてしまいます。その「使い手」は誰かであって、私ではない、と。それは建築家という作家による「作品」と、そう変わりません。

もちろんこれは私の価値観ですから、そうではないという考え方もあってしかるべきです。ただ、私は「私もまたそこに含まれている」と思える/思ってもらえるような建築が理想です。そしてその際問題にすべきことは、「完成」とは何か?ということだと私は考えます。これが最も理解されにくいことかもしれませんが、建築にとっての完成は、一般に考えられているような「建物を建てること」では必ずしもありません。使い手の思いに応えるために、建築的な知識をいかなる成果物にどう反映させていくべきか? そんな考え方で様々な人をサポートする役割としての「建築家」だっていてもいいはずでしょう(し、それこそが私の目指す「建築家」の理想形です)。そのとき「完成」の意味も変わってくるように思います。


そこに「私」はいるか?
「完成」を問い直すこととは、一種の「場」をつくることだと言い換えることができるかもしれません。特定の誰かだけではなく、私もまたそこに含まれていると感じられる場。そこにおいて、もしかしたら建築も舞台もまた別の何かも、ともに手を取りあえる可能性があるかもしれない。

そして『おしもはん』の稽古を観たときに思ったことは、この舞台は「完成」とは何かを考えさせてくれる作品なのではないか、ということでした。もちろん観客が入る舞台公演ですから、最も問わることは、つめかけた観客にどんな感想をもたらすのか、ということでしょう。ただ、今回私は断片だけを観るという機会に恵まれたからこそ、これを強く感じることができたように思います。

「私もまたそこに含まれている」という感覚は、実際に多様な人々を受け入れるために必要なことだと思います。不確定要素は現実問題として、時と場合によって「いたり/いなかったり」します。その「いたり/いなかったり」を、可能性のまま成立させること。私が先に書いた「懐の深さ」とは、そういう意味のことです。ふと漏らされた一言からずいぶんと蛇行しつつ大層なことを書いているな、と思われているかもしれません。が、「人がもてなされること」をテーマにするこの『おしもはん』という演目が、それ自体多様な人々をもてなさんとする意志に貫かれているものだ、ということを実感できたのが、この一言だったのです




「空気がつくっていく」
演劇が言葉だけからなるものではなく、言葉と身体との重なりによっているものであることを「エロスダンス」のシーンから実感しそして、演劇というジャンルを超えて、作品としての『おしもはん』の形式としての面白さ(と私が感じたもの)を「つなひき」のシーンから見ることができました後者では私自身の専門分野の話を少し引きながら話を大きくしてみました。

素直にまとめると、以上が2つのシーンを観た私の断片的な感想です。この文章は、『おしもはん』の断片のディテールにまつわるもの。そんなディテールに見えてくる、まだ言葉になっていない発話と運動によって届けられるメッセージ。それは受け取る側の観客としての私たちに読み解きが委ねられたものでしょう。私はこう考えましたが、あなたはどう考えますか、と

印象的だったのが、稽古後のレビューで構成・演出の伴戸千雅子さんが言った「空気が(舞台を)つくっていく」という言葉。事実、この日の稽古の様々な場面で、演者それぞれが議論をしたり、アイデアをやりとりしている風景を多く見ました。誰が強く決めるわけではなく、雰囲気としての「空気」がこの演劇をつくっていく。かといって誰も決めないわけではなく、伴戸さんのコンタクトのもとに『おしもはん』という磁場が生まれてくる。そんな、新しい「完成」のあり方が生まれてきそうなこの磁場こそが、「月の家」によるもっとも重要な「場」であり「作品」となるはず。それを確かめるためにこそ劇場に足を運んでみたいと思います






榊原充大|Mitsuhiro Sakakibara
建築家/リサーチャー、京都精華大学非常勤講師。建築にまつわる取り組みなどについて、調べたり、編集したり、文章を書いたりしています。2008年からRADという組織を運営しています。

WEB(組織):http://radlab.info/
twitter:@sakakibara1984

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